『平家物語』巻第九「忠度最期」を全文現代語訳。 薩摩守忠度は、一の谷の西手の大将軍でいらっしゃったが、紺地の錦の直垂(ひたたれ)に黒糸おどしの鎧を着て、黒馬の太くたくましいのに、ゐかけ地(漆塗りの上に金粉をふりかけたもの)の鞍を置いて、お乗りになっていた。 マイナー史跡巡り 一の谷の戦い② 敦盛. 名前の不思議6 おぢさんの覚え書き 楽天ブログ.

治承4年( 1180年 ) 正四位下 ・ 薩摩守 。 歌人 としても優れており 藤原俊成 に師事した。� 平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首収められた巻物を俊成に託し … 天養元年(1144年)伊勢平氏の棟梁である平忠盛の六男[1]として生まれる。母は藤原為忠の娘(異説として原高成の女とも[2])。紀伊国の熊野地方で生まれ育ったと言われており、熊野別当湛快の娘で湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。, 治承2年(1178年)従四位上。治承3年(1179年)伯耆守。治承4年(1180年)正四位下・薩摩守。, 歌人としても優れており藤原俊成に師事した。平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首収められた巻物を俊成に託した。『千載和歌集』に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している[3]。, 『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集[4]。なお、『新勅撰和歌集』以後は晴れて「薩摩守忠度」として掲載されている。 朗読 平家物語 敦盛最期. 義仲は平家軍を倶利伽羅峠の戦いで破り、京の都に入ります。. 和歌の短冊を身につけて合戦に出陣した忠度。最期の瞬間まで和歌を愛し、次の歌を遺して亡くなった彼の、飽くなき風雅への執心が、この能には描かれています。 旅宿. 【通釈】旅に出て日が暮れ、桜の木� が、頼朝が弟の範頼、義経を都に上らせ、まずは義仲を破ります。. 2018年09月07日(金)スタート[連続7回] 毎週金曜 夜8時00分~8時45分 【BSプレミアム】10月19日 第7話 放送予定 公式サイト 公式サイト(2020年6月6日(土)放送スタート!), 「吉宗の御落胤事件」「老中ぐるみの米価の操作」で 揺れる大江戸を舞台に、盗賊の首領・雲霧仁左衛門と 火付盗賊改方長官・安部式部とのライバル同士の大勝負が始まる――。, ※落胤(らくいん)とは 父親に認知されない庶子、私生児のこと。落とし胤(だね)、落とし子ともいわれる。 正式な血統の一族とはみなされないので、正当な系図には記載されていないことが多い。 ここに登場する謎の男・天一坊は将軍吉宗の御落胤である。, 安部式部(國村隼)は雲霧仁左衛門(中井貴一)の真の標的は、不正の黒幕である老中・安藤帯刀(小野武彦)だと睨み、安藤の屋敷を警備する。, 安藤家の蔵に侵入した雲霧一党は、隠し鉄砲を使った安藤の罠にはまって絶体絶命の危機となるが、間一髪で脱する。, 雲霧仁左衛門…中井貴一 盗賊・雲霧一党の首領。「殺さず、犯さず、貧しき者からは奪わず」のおきてを守り、まるで雲か霧のように跡形もなく、鮮やかな手口で盗みを働く。行き倒れていた天一坊を偶然助け、関わることになる。, 安部式部…國村隼 重罪である放火や盗賊を取り締まる火付盗賊改方の長官。歴代長官きっての知恵者で仁左衛門の宿敵。突然現れた天一坊の出自に疑念を抱き、ひそかに探る。, 七化けのお千代…内山理名 雲霧一党の一人。武家の侍女から大店の内儀まで変幻自在に化ける。仁左衛門の下で働き、心から慕っている。, 三坪の伝次郎…近藤芳正 新たに小頭となった一党の司令塔。声色遣いの名人で誰の声でも真似できる。, 州走りの熊五郎…手塚とおる 古参の幹部。恐ろしく身が軽く、走れば誰も追いつけない。, 大工小僧七松…大東駿介 ニセ雲霧との関わりから一党に加わった大工。盗み細工が得意。, 永島源八郎…藤田富 火付盗賊改方の同心。新人で正義感に溢れている。目や耳など、五感が鋭い。, 山田藤兵衛…村田雄浩 安部式部の右腕となる老かいな与力。雲霧一党の捕縛に執念を燃やす。, 天一坊…永山絢斗 将軍・吉宗のご落胤と称する青年。自分の出生に疑問を持つ中、仁左衛門と出会う。, 赤川大膳…佐野史郎 天一坊を紀州から江戸へと連れ出した男。仕官を望む浪人たちから大金を集める。, 静…星野真里 熊五郎の少年時代の奉公先の娘。家の没落後、浪人の夫と慎ましい生活をしている。, 武井半次郎…忍成修吾 浪人。静の夫。天一坊への仕官を熱望するが、必要な金が用意できずに苦悶する。, 柏屋清兵衛…イッセー尾形 米問屋と両替商を営む豪商。米の価格の高騰で暴利をむさぼり、天一坊を陰で操るなど暗躍する。, 安藤帯刀…小野武彦 幕府内で権勢を振るう老中。密かに豪商・柏屋清兵衛と通じている。, 2019年5月25日~7月20日 総合テレビ 毎週(土) 午後6時5分~6時43分 <全8回> ※7月6日のみスポーツ中継のため休止予定, この記事では、 あらすじ・放送日・出演者・主題歌など、ドラマ「土曜時代ドラマ・雲霧仁左衛門4」に関して第1話~最終回までの情報をお届けしていきます。. 中学国語 平家物語1 暗記事項 13. <物語のあらすじ> 一の谷の大将軍であった平忠度は 100 騎あまりの兵に守られて静かに退却していた。そこに行き会った源氏方の武士、武蔵国の猪俣党の岡辺六野太忠純が名乗れと声をかけたところ、「これは味方ぞ」と振り向いて答えたその口が御歯黒であったことから平家の公達と確信し馬を寄せて組 … 今は朝敵になったとはいえ、直前まで朝廷に仕えていた人たち 僧たちは老人と言葉を交わし、宿を借りたいと願い出るが、老人は「この桜の蔭ほどの宿があろうか」と言い、俊成の弟子であった平忠度の和歌を教えると、夢中での再会を約して消え失せる。 平家物語③敦盛の最期前 Youtube. あらすじ 第7話 「最期の掟」 安部式部(國村隼)は雲霧仁左衛門(中井貴一)の真の標的は、不正の黒幕である老中・安藤帯刀(小野武彦)だと睨み、安藤の屋敷を警備する。 一方、正義感の強い同心・永島源八郎(藤田富)を仁左衛門は誘拐し、幻惑する。 源頼朝討伐の富士川の戦い、源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣。一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死した。『平家物語』によると源氏に紛れる作戦をとっていたが、源氏の多くが付けていないお歯黒を付けていたので見破られた。忠度は明石を経て現在の兵庫県神戸市長田区へ向かい、そこから逃走用の船を得ようとしたが途中で忠澄に討たれた[5]。現場は現在の明石市天文町付近で、忠度と忠澄が戦ったことにちなみ、「両馬川」と呼ばれた[6]。その時箙(えびら)に結びつけられたふみを解いてみると、「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれていた。, 忠度が討たれた際、「文武に優れた人物を」と敵味方に惜しまれたという。戦後、忠澄は忠度の菩提を弔うため、埼玉県深谷市にある深谷駅南口の清心寺に供養塔を建立している。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); amzn_assoc_ad_type ="responsive_search_widget"; amzn_assoc_tracking_id ="ns1226-22"; 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物寂しくも風情ある、須磨浦の景色。散ってゆく桜の花びらは、かつてこの地で起こった合戦の傷跡を包み込んで、やさしく癒してくれる…。, 藤原俊成の旧臣である僧の一行(ワキ・ワキツレ)が須磨の地を訪れ、由緒ありげな桜の木のもとへ至ると、一人の老人(前シテ)が現れる。僧たちは老人と言葉を交わし、宿を借りたいと願い出るが、老人は「この桜の蔭ほどの宿があろうか」と言い、俊成の弟子であった平忠度の和歌を教えると、夢中での再会を約して消え失せる。, その夜、僧たちの夢の中に、平忠度の霊(後シテ)が現れた。忠度は、師・俊成が撰者をつとめた『千載集』に自らの歌が選ばれたものの、朝敵の身を憚って「詠み人知らず」とされてしまったことが未練だと明かす。忠度は、平家都落ちの只中に都まで引き返して俊成に自らの歌を託したこと、討死に際しても歌の短冊を箙に挿していたことなどを明かし、歌道への執心のほどを述べると、花の蔭に消えてゆくのであった。, 鎌倉時代初頭。一ノ谷合戦の舞台となった須磨の地もようやく平和を取り戻し、海の波は穏やかに、長閑な春の浜辺の風情である。, その須磨の地を訪れた、旅の僧の一行(ワキ・ワキツレ)。もとは和歌の巨匠・藤原俊成(しゅんぜい)に仕えていた彼らであったが、俊成亡き後は仏門に入り、こうして修行の日々を送っていたのであった。, 須磨の山蔭に至った一行。そこへ、この浦に住む塩焼きの老人(前シテ)がやって来た。「汐を汲み、塩を焼く木を運びつつ、賤しい生業を営む日々。なんとも物寂しい、この須磨浦の海辺の景色…」。, 老人は、山蔭に咲く一本の桜のもとに足をとめる。「この若木の桜は、とある方の形見の木。この木をめでて、その方を弔おうではないか」。, 僧は、山蔭に佇むこの老人に声をかける。海人だと名乗る老人に、海人ならば海辺にいるはずだと僧は訝るが、老人は、塩を焼くために山へと足を運んでいるのだと明かす。, 海辺から程近い、この須磨の地。吹きぬけてゆく浦風に、惜しまれつつ散ってゆく桜。空には海人の塩焼きが、一条の煙となって消えてゆく。鄙の地ながらも趣ある、須磨の山辺の風情。, 時刻は暮れ方。宿を借りたいと頼む僧に、老人は、この桜の木の蔭ほどの宿があろうかと言い、一首の和歌を教える。『行き暮れて木(こ)の下蔭を宿とせば 花や今宵の主ならまし』。, 「この歌の主は既に亡く、今やこの須磨の土中…。この桜こそその形見。海人たちもここに立ち寄っては、常に弔っているのです。お坊様達も、どうか弔って行って下され」。, その歌の主とは平忠度。一ノ谷合戦で命を落とした平家の公達にして、俊成の和歌の弟子。この桜こそ、その忠度を弔うべく植え置かれたものなのだった。, 「有難いこと。お坊様の弔いによって、ようやく成仏することができます…。私こそ、お坊様に弔われるべく、ここへ現れた身。都に言伝(ことづ)てしたいことがあります。夢の中で、またお会いしましょう」 そう告げると、老人は花の蔭に姿を消してしまうのだった。, そこへやって来た、この浦の男(間狂言)。彼は僧に、この浦の「若木の桜」のことなどを語って聞かせる。僧たちは、先刻の老人こそ忠度の霊だと確信するのだった。, その夢の中に現れた、一人の武将(後シテ)。彼こそ、平忠度の幽霊であった。「この世に残した、わが身の妄執。『千載(せんざい)和歌集』に私の歌が選ばれたものの、朝敵となった身ゆえ、私の名は書き留められず…。それを選んだ俊成先生さえ亡くなった今、私の名を載せて下さるよう、先生の御子息・定家(ていか)どのに言伝てて下され」。, 「後白河院の下命によって『千載集』の撰者となられた俊成先生。時しも平家は都落ちの只中であったが、私は都へ引き返すと、先生の邸宅に赴き、私の歌を『千載集』に入れて下さるよう懇願したのでした。願いは聞き届けられ、思い残すことのなくなった私は、西の海へと落ち延びていったのです…」。, ――その後、この地で繰り広げられた一ノ谷合戦。逃げ延びる船に乗ろうとした忠度だったが、そのとき後方から、武蔵国の武士・岡部六弥太が迫ってきた。忠度も引き返し、六弥太に組んでかかる。彼を組み敷いた忠度だったが、その刹那、背後から彼の家来が斬りかかり、忠度の右腕を切り落とす。覚悟を決めた忠度は左手で六弥太を投げ飛ばすと、西を拝んで念仏を唱え…、ついに討たれて果てたのだった。, ――六弥太が死骸を見ると、まだうら若い顔立ちに、世の常ならぬ錦の直垂。さては公達に違いないと思っていると、腰に挿した箙(えびら)に、ひとつの短冊が付けられていた。「旅宿」という題で詠まれたその歌こそ、かの『行き暮れて』の歌。そしてその短冊には、「忠度」の名が据えられていた…。, 自らの過去を明かした忠度。「俊成先生の縁者である貴方がこの花の蔭に立ち寄ったので、お話しをしようと、こうしてお引き留めいたしました。もはやこれまで、花は根に帰ってゆくのです…」 そう告げると、忠度は回向を頼みつつ消えてゆく。, 平安時代末。時の法皇・後白河院は、治天(ちてん)(天皇家の家長)としての一世一代の大仕事である勅撰和歌集の編纂を命じました。下命されたのは、新興の歌道家・御子左(みこひだり)家の藤原俊成(しゅんぜい)。のちに『千載和歌集』と名付けられるこの七番目の勅撰集は、俊成にとってもまた、一世一代の大仕事となったのでした。, 【通釈】天智天皇のおられた滋賀の大津京はすっかり荒れ果ててしまったが、長等(ながら)の山の山桜は、昔のままに美しく咲いていることだ…。, この歌は、飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂が壬申の乱で荒廃した旧都を懐かしんで詠んだ歌を踏まえ、それを真似て詠んだものです。この『千載集』が完成を見たのは源平合戦終結後の文治三年(1187)であり、この歌に触れた当時の人々は、戦乱で世の中が荒廃する以前の日々を懐かしんだことでしょう。, この歌は、『千載集』の中では「詠み人知らず」とされていますが、平忠度の歌集『忠度集』に同じ歌が見えることから、忠度の詠んだ歌であることが知られています。本作では、この歌にまつわる物語が題材とされています。, この『千載集』の編纂が進められていた頃、都は物々しい雰囲気に包まれていました。武家としてはじめて政治の実権を握り、一時は後白河院を幽閉するに至った平氏政権は、源義仲軍や源頼朝軍の追撃によって都を追われ、寿永二年(1183)秋、時の天皇・安徳帝を連れて西の海へと流浪の旅に出ることになります。, その都落ちの一行に、平忠度はいました。『平家物語』には、次のような故事が載せられています。, ――平清盛の弟と生まれた忠度は、風雅な平家一門の例に洩れず歌道をたしなみ、藤原俊成を師と仰いでいた。都を追われてゆく忠度の心にかかるのは、師・俊成が院の下命を受けて編纂をはじめた勅撰集のこと。何としても勅撰集に入集して、歌人としての名を後世に留めたいとの念願つよく、彼は都落ちの一行から離れてひとり都へ立ち戻ると、俊成の邸宅へと向かい、自らの歌を書いた巻物を師に託す。後白河院に対する反逆の罪を背負った平家の身ではあったが、俊成は彼の執念ともいうべき熱意に同情し、『楽浪や』の一首だけ、「詠み人知らず」として載せてやったのであった…。, 念願叶い、勅撰集への入集を遂げた忠度。しかし彼の名は記されず…。その未練から、本作のシテは登場し、今は亡き俊成の子で歌の道を継いだ定家(ていか)へのメッセージをワキへと託すのです。定家が編纂した九番目の勅撰集『新勅撰和歌集』には忠度の歌が実名入りで載せられていますが、それは死してなお消えやらぬ忠度の歌道への執心が、定家に届いたからかもしれません。, 和歌の短冊を身につけて合戦に出陣した忠度。最期の瞬間まで和歌を愛し、次の歌を遺して亡くなった彼の、飽くなき風雅への執心が、この能には描かれています。, 【通釈】旅に出て日が暮れ、桜の木蔭を今夜の宿としていたら、桜の花が今宵の宿主となって、風雅なもてなしをしてくれたろうに…。. 明石市には、忠度の墓と伝わる「忠度塚」があり、付近は古く忠度町と呼ばれていた(現・天文町)。また忠度公園という小さな公園もある。神戸市長田区駒ヶ林には、忠度の腕塚(地図)と胴塚(地図)がある(神戸市認定地域文化財)。, 唱歌「青葉の笛」(大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵)の二番は、『平家物語』巻七「忠度都落ち」と巻九「忠度最期」の二場面を、続けて歌っている。即ち一度都落ちした忠度が京に取って返して歌の師・俊成に、近々編纂される勅撰和歌集のために自分の歌を託した事と、一の谷で忠度が討たれた時(「今はの際間」)に箙の中に残っていた歌が、「花や今宵の主ならまし」であった事を歌っている。, 諱が「ただのり」であることから、忠度の官名「薩摩守」は無賃乗車(ただ乗り)を意味する隠語として使われる場合がある[7]。狂言『薩摩守』では渡し舟に乗り、「平家の公達、薩摩守忠度」と言って舟賃を踏み倒そうとする僧が登場しており、かなり古くから知られた語呂合わせであったと見られる[8]。, 能『忠度』では、忠度の霊が千載集の「読み人知らず」とある我が歌に作者名を入れよと、俊成の子である定家に訴えるよう、旅の僧となった俊成の家来に頼む姿が描かれている。ちなみに定家は『新勅撰和歌集』において以下の歌を「薩摩守忠度」の名で選んでいる。この歌は女性の立場で詠んでおり、「つもり」が「津守(地名)」、「恨みても」が「浦見ても」、「待つ」が「松」の掛詞となっている。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=平忠度&oldid=75405602.